執筆:栗原 慎二
本書では,傍観者・観衆について、いくつか考えていることを述べておきます。
まず、いじめを強化する立場にいる子どもたちです。恐らくこれもさらに二層に分かれていて,一つの層は積極的にいじめに関わって行く「積極的観衆層」です。その背景を探っていくと,例えばやはり加害者と同様に,共感性が低く,いじめをおもしろいと思っていたり,被害者への敵意やイライラを持っていることもあると思われます。いわゆる「仕掛け人」タイプの子どもも,この層に含まれています。もう一つの層は「消極的観衆層」です。これは加害者との関係を壊したくなかったり,加害者を応援しないと報復されるのではないかという恐れを持っている層です。
次に傍観者層ですが,これも恐らく二層に分かれるでしょう。一つは、「関わり合いになりたくない」「下手に関わると次は自分がいじめられる」といった気持ちを持っている子どもたちで,救済への意図を持っていない層です。まさに「傍観者」です。
もう一つの層が,一定の正義感を持ってはいるが,救済的な行動は起こさない層です。その理由は「被害者が自分でなんとかするべきだ」とか「どうしていいか分からない」など,人それぞれでしょう。しかし,状況によってはいじめに対して批判的行動を起こしたり,救済的な行動をとったりすることもあります。これを「潜在的救済者」と呼びたいと考えています。
「傍観者」も「潜在的救済者」も、いじめに気がついていながら「少なくとも自分は直接的には何も荷担していない」と思っていますが,実は,「何もしない」という行動によって,「いじめ許容空間」を創出し,結果としていじめの継続に荷担していることに気づいていません。
学級でいじめが起こった場合,救済者が子供たちの中から出てくることが重要になります。そのような子どもたちを育てていくことが非常に重要になります。
では「観衆」や「傍観者」と「潜在的救済者」との違いは何でしょうか。このことについてはまだはっきりしたことは言えないのですが、私たちがやってきた研究では、どうやら「被害者の感情や状況を理性的に理解する共感性」と「規範意識」が重要かもしれないという感触を得ています。ただ「潜在的仲裁者」は「仲裁者」ではありません。足りないものは何かというと、どうやらそれは「仲裁行動に対する効力感」のようです。
実は「かわいそう」と思っても傍観者にとどまっている子どもは多くいます。つまり情緒的に共感して「かわいそう」と思うことは救済行動に直結しないようです。それはベースとして大事ですが、他者の状況を理解する力や、規範意識、ミディエーションのような仲裁行動のスキルを持っていること、こうしたことが仲裁者には必要と思われる、ということです。
このように仲裁行動をとれる子どもを育てるという取組と、正義の支配する教室をつくるという取組を同時進行で進めていくことが実際にいじめのない学級をつくるうえでは重要なことと考えます。
なお、こうしたことに役に立つ取り組みとしては、PBIS、SEL、ピアサポートがあげられるでしょう。いずれもAISESのe-ラーニングで学ぶことができますので、ご視聴ください。